島しづ子牧師説教メッセージ

うふざと教会(日本キリスト教団うふざと伝道所)

◆2021年12月12日
イザヤ書40章1~11節
「呼びかける声」 島しづ子


 飛行機に乗る時は、辺野古や安和鉱山付近を注意してみます。親しい人にも飛行機の中からそれらが見えたら写真に撮ってと頼んでいます。11月に飛行機に乗りましたので、見えた安和鉱山、嘉手納基地、糸満市の平和公園の辺りを写真に撮りました。安和鉱山は名護市側から見ると、まだ山が残っているように見えている場所であっても、反対側から見たら、山は段々畑のように切り崩されて行って近い将来には丘から、谷になると思われます。山を二つくらい崩すような土砂を投入して新基地建設の埋め立てが進んでいます。それでも土砂が足りなくて、糸満や八重瀬の戦跡後から土砂を運ぶ計画があります。そうなったら、沖縄島は土砂の切り出し、運搬によって道路も破壊され、とんでもないことになると思われます。しかも戦争のための基地造りなのですから。そこまでしても土砂が足りないような工事は、沖縄の環境から見ても好ましくありません。
 11月に飛行機からは、今帰仁や運天港に流れ着いた軽石が、太平洋側にも見られ、糸満の辺りで、帯のように見えました。


 私は長野県の山育ちなので、海のことは沖縄に来て知り始めたばかりです。海に満潮、干潮があること、海の中にサンゴが生きていて、その周囲に魚などの生物が数限りなく息づいていること、干潮時には干潟にこれまた無数のゴカイやカニなどが無限と思われるほど棲んでいる痕跡を残します。今頃知って驚くことばかりです。遅すぎますが、知らないよりはよかったと思っています。そして、都会生活は人間を傲慢にし、自然さえも制御できると思わせていることに気が付きました。


 船に乗るようになってから、朝は「辺野古、名護漁港の海況」というアプリを見て、干潮時間を確かめます。船長に「今日干潮は何時?」と聞かれるからです。船長見習いである私の訓練のためですが、干潮時間を知らないと、辺野古のように複雑な海域では船を岩にぶつける可能性があるからです。干潮時間によって海上行動も影響を受けます。先輩船長たちが、干潮時に岩や砂地に乗り上げてしまい、ペラを壊した話や立ち往生した話をしてくれます。また、雨風の予報と浜で空を見、波を見て、海上行動が出来そうか判断します。ですからカヌーチームも船長チームも張り切って集まっても、海況によって行動中止となることも多いです。そういう時は陸や丘の上から工事の進捗状況を監視して報告し合っています。
 海で糧を得てきた海人たちは、海況をよく見ていて危険を冒さないように用心している様子がうかがえます。海にいるといっそう大自然には逆らえないということを感じます。自然を観察し、コントロールし、都合よく利用しようとしてきた人類は、いまだ台風一つコントロールできません。むしろ、人工的な建造物によって台風による災害を大きくしてきました。今こそ、人類は謙虚になるようにと自然から諭されているように思います。


 今日の聖書個所イザヤ書40章1~11節は、バビロンに捕囚されたイスラエルの民への呼びかけとして語られています。国を失って、なんの喜びも希望も無い民に、その声は語ります。概要は以下の通りです。
 ―いずれエルサレムに帰れる、苦役の時は過ぎた。荒野に道を備え、広い道を通せ。谷は身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光が現れるのを人間が見る。(1~5節)
人間は草のような者で、草は枯れ、花はしぼむ。誓いをしても草が枯れ、花がしぼむように肉なる者の約束は頼りない。が、神の言葉はとこしえに立ち、その約束は成就する。(6~8節)
高い山に登って、力を振るって声をあげ、良い知らせをシオンとエルサレムに伝えよ!
おそれることなくユダの町々に告げよ。(9節)
見よ、神が来られる。力を帯び、統治される。主は羊飼いとして群れを養い、小羊をふところに抱いて、母羊を導く。(10~11節)


 バビロンに滅ぼされないようにと、神は預言者を通してたびたび警告しましたが、イスラエルの王たちは聞かず、自分たちの判断で強そうなエジプトに頼り、結局は国を失いました。希望なき民に神は預言者を通して再び語ります。実は再びどころではなく、イザヤをはじめとする歴代の預言者たちは、神の言葉を語り、裁きを宣言しています。神の言葉はそれで終わることなく、回復の希望も預言者を通して語ります。


 第二次世界大戦後、日本は他国を侵略して暴虐を行ったことを反省したはずです。多くの命を失い、沖縄にも過酷な犠牲を強いた戦争の愚かさに誰もが泣き、決心しました。「二度と戦争はしない」と。それがどうでしょう。沖縄県には自衛隊基地が強化されました。好戦的な内閣中心の政治体制がいっそう進んでいます。戦争は弱肉強食思想を強化します。強者が大手を振るい、山や丘のように君臨して、谷間に住む者をいっそう虐げるのです。イザヤの預言は変わっています。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」(4節)と。聖書協会共同訳では、「谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり 起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。」とあります。どいう状態なのでしょう? 谷に例えられる人々は自ら立ち上がり、山や丘に例えられる人々は自ら低くなれ。上下関係ではなく、谷のような場所に生きる人間も山のように威張りくさる人間も平等になれと語っているのではないでしょうか。


 このようなことを思わせる新約聖書個所があります。マリアが受胎告知された時に詠った詩です。マリアの賛歌として知られます。
 ルカ福音書1章46~56節(新約聖書101頁)「主はその腕で力を振るい、思い上がる者打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、」(51~54節)
 またバプテスマのヨハネの誕生に際して、父ザカリアが詠ったザカリア賛歌も同じ響きを持っています。ルカ福音書1章67~80節(新約聖書102頁)にあります。
 「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。」(72節)「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(78節)
 神がイスラエルに対して約束した契約は、滅びゆくような無力な者への約束でした。その契約をイスラエルが忘れ、神を離れた生き方をしても、神自身はその性質から契約を成就する。だから「谷間に住む者、身分の低い者、暗闇と死の陰に生きている者が平和になれる」とイザヤが預言し、マリアもザカリアもその神を賛美して詠いました。彼らが生きた時代や私たちの時代が持っている価値観が逆転する、と預言者は語ったのです。この事がイエスの誕生とその人生によって、より明らかに示されることになりました。
 イザヤの時代もイエスの時代も現代も、強い者が君臨し、弱者を犠牲にして苦しめています。これでいいはずではない、これは本来の人間のあり様ではない。神が求め、神が行おうとしている約束はそのままでは滅びてしまう人々の救済でした。多くの思想や主義がいかにして人類は生き延びられるかを考えてきたはずです。残念ながら、山や丘のような人々だけが生き延びるような世界を人類は続けています。そのような世界を神は望まなかったことは確かです。そしてイエス・キリストの生き方の中に、すべての谷が身を高くする道があります。


サウンド オブ ミュージックの中に「Climb Every Mountain」「すべての山に登れ」という名曲がありますね。今日のメッセージを準備中に思い出しました。沖縄に来てから虹に会う機会が多くなりました。神が私たちに呼びかけている声を聞きながら歩みましょう。


すべての山に登りなさい 高き低きもくまなく探し求め
知ってるすべての横道も すべての小道も辿って

すべての山に登りなさい すべての川を渡って
すべての虹を追いかけて あなたの夢をつかむまで

夢を手にするために あなたの愛をすべて与えなさい
あなたの人生一日一日を 生きてる限りずっと ♪



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