平良修牧師説教メッセージ要旨

うふざと教会(日本キリスト教団うふざと伝道所)

◆2016年5月29日
エゼキエル書18章30〜32節
「立ち帰って、生きよ」 平良修


 在日韓国人作家・季恢成氏の自伝的小説「われら青春の途上にて」の中に、しじみ売りの老婆の売り声“しじみ―、しじみ―いらんか―!”が貧乏生活をしている著者には“死んでしまえ!”と言っているように聞こえるという場面がある。主人公はいっそのこと死んでしまいたい思いにかられていたのである。

 人は時に死んでしまいたいと思うことがある。しかし、生きているのではなく、生かされていることに気付かされて、自分の生命をあらためていとおしく感じさせられることがあるのだ。

 「砂の上の足あと」という、泪なしには読めない詩がある


ある夜、私は夢を見た。私は海辺を歩いていた――神とともに。
それぞれの場面にくっきりと彫りつけられている砂の上の二対の足あと。
一対はわたしの、そしてもう一対は神のもの。
そのようにして、わたしの生涯の最後の場面が浮かんだときわたしはふりかえった――砂のうえにつづいている足あとを。
どういうことだろう、これは?ところどころでは足あとはたった一対、それも一生のうち、もっともみじめな朝、わびしいゆうべに・・・
「神さま、あなたは約束してくださいました――わたしがあなたにしたがおうと決心したときに――『これからはいつも、あなたとともに歩もう』と。
でも、わたしの一生のもっともくらい日々には、足あとはたった一対だけ。
神さま、私があなたをせつに必要としたとき、なぜ、ああ、なぜ、あなたはわたしをひとりぼっちになさったのですか?」
「わが子よ、わがいとし子よ、どうしてわたしがあなたを見捨てるだろう?
あなたの試練のとき、苦しみのときに、もしも一対の足あとしか、あなたに見えなかったとすれば、それはわたしがあなたを背負っていたからではなかったか?」


 最後には神にも見捨てられた思いの人々に対して、預言者エゼキエルは“どうしてお前たちは死んでよいだろうか、私はだれの死をも喜ばない。お前たちはひるがえって生きよと、主なる神は言われる”と明言した。人が生きて何をしたかは勿論大切なこと。しかし、何も出来なくても、出来ることが僅かでも、生きて存在しているということ、否、生かされて生きていること自体にもっと深い意義があるのだ。神の愛と赦しの中で存在するだけで、何もできなくても、それだけで勝利なのだと思う。

 前述の「われら青春の途上にて」の著者は、“わたしたちはまだ若いのだ。やはりあの朝の声を断ち切って生きていく年なのだ”と、若さをバネにした。

 しかし若さはいつかは無くなる。私たちには、私たちを信じ、望み、愛して下さるイエス・キリストこそが永遠のバネなのである。


◆2016年5月22日
マタイによる福音書7章13〜14節
「開かれた狭い門から入れ」 平良修


 主イエスは言われる。「狭い門から入りなさい。亡びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者が少ない」と。またこうも言われる。「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。

 人生には二種類の門、道がある。広い門と道、狭い門と道。そのどちらを通るかで人生に決定的な違いが生じる。私たちの人生にはどの門と道を選ぶべきか、決断の時がある。迷う時は困難な道を選べという重たい智恵がある。しかし、本能的に楽な道を選びたい私たちにとって、困難な道は間違いなく孤独と厳しさそのものであるに違いない。かと言って「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という甘えた人生態度からは良質の実は与えられないことも確かである。

 困難の道と楽な道の違い。NHKテレビの“プロフェッショナル”を私は敬意と驚き持って見ている。それはまさに狭い門、困難な門、遠い道、厳しさそのものの道を信念をもって貫き通した人たちの栄光の物語である。沖国大の玉野井芳郎教授は講義の最初の時間に黒板に“狭い門から入れ”と板書したと聞く。研究者の心構えに共感を覚える。

 しかし主イエスの言う「狭い門」とは「イエス・キリストご自身」を指しているのである。主イエスは言われた「私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」と。イエス・キリストという「門」、そして「道」。2000年以上も前、地球の反対側のユダヤで生きたイエス。時間的にも空間的にも私たちからあまりにも遠い存在。そのイエスが神から離れ落ちた罪人である私たちを神との関係に回復させるために、私たちに代わって、十字架上で神の裁きの死を遂げなさった。そして三日目に甦って、神の座に戻り、聖霊として一緒にいてくださるという。そのイエス・キリストを自分の救い主として信じるということ。そこまで神の愛を信じるということ。

 こんなことがどうして出来るのか。自力でイエス・キリストという門を入ることは全く不可能。唯一の可能性はその主イエスがご自分の門を私たちの背後にまで広げて下さって、私たちをそのまま門の中に囲み込んでくださるという方法によるしかない。その広げられた狭い門から入れが今朝のメッセージである。


◆2016年5月15日
使徒言行録4章32〜37節
「心も思いも一つにして」 平良修

 今日はキリスト教会の誕生日、ペンテコステの日である。主イエスの復活・昇天から50日目に激しい聖霊の降臨を受け、新しい信仰集団「キリスト教会」が誕生した。使徒言行録2章にそのときの様子が記述されている。

 初代教会には教会員たちのすばらしい一致があった。精神的な一致だけでなく、持ち物を共有するほどの一致だった。人々が一様に貧しかったこと、キリスト再臨を待つ緊張感に満ちていたこと、すでに交わりを築いていた弟子たちを中心にした集団だったことなどがその要因だった。しかし初代教会のその一致は長くは続かなかった。多くの教会を建てた伝道者パウロは不一致状態に陥った諸教会を痛み、もう一度産みの苦しみをしなければならないと覚悟させられた。そして十字架の主にある一致への悔い改めを強く訴えた。教会が一つになることは、主イエスの切願でもあったことはヨハネ福音書17章に明らかである。

 “真理のためには分裂を恐れるな!”との主張がある。分裂の深みから、もっと深い一致を生み出す場合も確かにある。しかし分裂にはやはり敗北の匂いがあることは否めない。

 “心を一つにする”とは、ただ単に気持が通じ合う、考えが同じとかではなく、ある目的への情熱において一つであることだと思う。教会にとって、その情熱とは何か。それは礼拝への情熱。主にある交わりへの情熱。キリストの愛を実践し、この世に伝えることへの情熱である。この情熱における一致を欠いては、教会の本当の一致とは言えないのではないか。

 使徒言行録に見る初代教会のすばらしさは、教会堂のすばらしさでも説教の素晴らしさでもなかった。キリストの十字架の愛を共有し、それを伝える情熱の故に、持ち物を共有することまで出来た信徒たち。これこそが初代教会の真のすばらしさであった。礼拝後の教会総会もそのような一致の時と場であるように祈ろう。


◆2016年5月8日
マタイによる福音書15章21〜28節
「主よ、ごもっともです。しかし―」 平良修

 今日は母の日。今朝の聖書に1人の母が登場する。精神病に苦しむ娘の母親。あらゆる手を盡くして倒れんばかりの母親。娘の苦しみが自分の苦しみである母親は訴えた、“私をあわれんで下さい”と。しかし主イエスは一言も応えなさらない。心ある人なら、少なくともいたわりと励ましの一言ぐらいはかけるに違いない。でも主イエスは沈黙。何故だろうか。母親の熱心がまだ不足だとでもいうのか。癒してあげたいが癒す力がなかったのか。

 そうではない。どんな緊急事態であっても私には優先しなければならないことがある。 しかしその母には主イエスの沈黙の意味が分からない。そして母は訴えを止めない。主イエスが答えた。“私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない”と。神の世界救済の業はイスラエルから始まる(ヨハネ4:22)。神の世界救済の道具として選ばれたイスラエルの人たちが優先される。あなたのような異邦人は後まわしだと言うのである。これは民族差別ではないか!しかし主イエスは、ご自分の立場を曲げない。イスラエルの子どもたちのパンをとって小犬のような異民族にやることは出来ないとまで言う。

 母親はすぐに切りかえした。“主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただけるのではないでしょうか”と。この女性の必死な食い下がりのねばりはどこから来るのか。それは病める娘を愛する母親だったからである。それこそが主イエスにイスラエルの救いを後まわしにしてでも異邦人のこの母親の熱願に応えさせる原動力だった。主イエスは、祭司長、律法学者、長老たちとの論争で負けたことは一度もなかった。しかしこのときは母親に負けた。神の世界救済の計画の順位を変えさせるほどの力を彼女は発揮したのである。そして娘は癒された。この出来事は、同時に、主イエスは、ご自分の計画の順番を変更なさることすらも出来る、生きた主権者でいらっしゃることの証でもある。今日は「母の日」である。


◆2016年5月1日
マタイによる福音書22章37〜40節
「神を大切に、人を大切に」 平良修

 ある人がイエス・キリストに質問した。神の戒めの中で最重要なものは何ですかと。それへの答えが「全身全霊をあげて、神を大切にすること」、同様に「自分自身を大切にする真剣さであなたの隣人を大切にすること。これ以上の神の戒めはない。」とイエス・キリストは断言なさった。神を大切にしたいのなら、人間を大切にせよと。

 何故それほどまでに人間が大切にされるのか。人間は神の像に似せた人格、神と向き合う相手として造られた。そこに人間の尊厳の根拠がある。その人間が神から離れてしまった。聖書はそれを罪と呼び、すべての人間を罪人と断定する。その罪人を裁きなさる聖と義の神は、しかしあろうことか人間の代わりに独り子イエス・キリストを十字架上に裁き、死なしめ、人間を救済なさった。ここに人間の尊厳の根拠がある。

 人間とは何か。色々な研究による人間理解がある。しかし、人間が神の愛の対象であることを抜かした人間理解は、全く不十分かつ誤りである。

 人間とはそういう貴い存在である。人間を大切にすることにおいては、それがどんなに小さいことであっても尊重する。反対に人間を粗末にすることについてはどんなに大きな力であっても抵抗する。イエス・キリストを主と信じ従うキリスト教会の当然の在りようである。

 戦争は人間を粗末にする過ちの最たるものである。したがってキリスト者には非戦・反戦しかない。“あなたの敵を愛しなさい。”“あなたの敵の為に祈りなさい。”“剣をとるものは剣で滅びる。”“報復は神にゆだねなさい。”“平和を創りだす者は幸いである。その人は神の子と呼ばれる。”

 伝道こそが教会の使命だと主張する「教会派」と呼ばれる人たちがいる。その人たちは人権・平和問題に熱心な教会を批判的に「社会派」と呼ぶ。このような分派は教会の堕落である。確かに教会は伝道を主キリストから命じられている。しかし聖書は隣人愛をこそ第一の使命と断言している。教会は隣人を大切にする使命の故に伝道をするのである。私たちは「教会派」でも「社会派」でもない。「イエス・キリスト派」である。そもそも“イエス・キリストは主である”と告白しながら、その主を分断するような行為はおかしいではないか。イエス・キリストは分断されない。“イエス・キリストは「主」である”とはそういう信仰のことである。


◆2016年4月24日
マタイによる福音書5章13〜16節
「世のためにある教会」 平良修

 教会は神のご栄光のために存在する。この答えは正解ではあるが、抽象的。もっと具体的に言うと、教会は世のために存在することを通して神のご栄光に奉仕する。つまり世のために存在できない教会は神のご栄光のために奉仕する教会にはなれないということ。ヨハネ福音書3:16に“神はその独り子イエス・キリストを下さったほどに、この世を愛された”とある。「この世」とはそれほどに価値高いものだろうか。逆に聖書では「この世」は神の栄光を汚す悪い存在という意味で呼ばれている。その世を愛して、神はみ子イエス・キリストを下さったのである。

 教会は「地の塩、世の光」であると主キリストは断言された。教会は地に溶け込んで食べ物に味を付け腐敗をとめる塩の役目を果たすために存在するしかない。「世を照らす光」としてしか存在しえない集団。それが教会である。そうならば、教会が自分の仲間だけの殻に閉じこもっていることは許されない。教会はこの世と距離を置くべきだとの考えは、イエス・キリストの精神に全く反する。イエス・キリストはこの世の救いのためにこの世に来られた神の子であり、十字架の死に至るまでこの世のど真ん中にみずからを置かれた。福音とは、神ご自身がキリストにおいてご自分の命をかけるまでに、この世のために、この世の中で、この世と共にあられたという事実のことである。だからこそこの世には救いがあるのである。キリストが主であられるということは全世界の主であられるということ。キリストにとっては人がいる全世界のあらゆる領域がご自分のホームグランドなのである。聖書は教会をさして「イエス・キリストの体なる教会」と呼んでいる。ということは教会は主キリストの意志を実行する集団であるということ。したがって教会にとってはこの世のすべての領域が自分のホームグランドであるということになる。

 にもかかわらず、教会には教会派、社会派というおかしな色分けがある。それは教会の奉仕の場を二分する過ちであるだけでなく、世界の主イエス・キリストを二分する大きな罪悪ですらある。教会には伝道的神奉仕と政治的神奉仕が分かちがたい責任として付与されている。世のための教会に徹することによって教会はキリストの体なる教会としての存在を明らかにし、神のご栄光に仕えるものとなれるのである。


◆2016年4月17日
イザヤ書43章1〜7節
「値高く、貴い者」 平良修

 人間の生命は貴い。日本国憲法の三大重点は主権在民、平和主義、人権尊重である。人権尊重は人間の生命があまりにも粗末にされてきた日本の過去への猛省から来ている。1931年〜1945年の軍国主義侵略戦争によって日本の300万が殺され、その日本の手によって2,000万人ものアジア人が殺された。この人命軽視。また女性はいつも男性の下位におかれ、従わされた。子どもは大人の道具のように人身売買された。これらへの反省から人権尊重が強調されたのである。

 では何故、人命・人権はそれほどまでに大事にされなければならないのか。聖書にその明快な答えが示されている。人間は天地創造の神と向かい合って生きる人格として創造され、生かされている。それがあるべき人間の姿である。しかし現実には、人間は神に背中を向けて不自然な生き方をしている。その不自然さが自然になるほどに、人間は創造の秩序から外れている。聖書はそういう人間を「罪人」と言う。神との関係を崩しているそのことが罪として裁かれるのである。しかし現実には人間は神に背中を向けることが逆に自然になっており、反対に神に向かって生きることが不自然になっている。その結果、キリスト者は少ないことになる。

 神は人間を裁く「義」なる神である。しかしその裁きを私たちへではなく、身代わりとして独り子イエス・キリストに負わせたのである。私たちはイエス・キリストの命と引き換えに罪赦されて生きるものとされている。ここに私たち人間の尊厳の根拠がある。

 1995年、一人の沖縄の少女が3名の米兵にレイプされたとき、8万余の抗議集会が開かれた。挨拶に立った当時の大田昌秀県知事は“知事として幼い子の尊厳を守ることが出来なかった”と謝罪した。それは誠実な謝罪ではあった。しかしどんなにレイプが大きな犯罪であり、被害者の少女が生きていけない程の傷を負わされたとしても、レイプによって少女の尊厳は少しも崩れてはいない。人間の尊厳とはその人の在りようによって決まるのではなく、神が独り子イエス・キリストを犠牲になさるほどに人間を大事にされたという、この事実にこそ根拠がある。それは神によって打ち込まれた不動のものであり、人間の如何によって動くものでは絶対にない。それほどのものだからこそ、人間は大切にされなければならないのである。


◆2016年4月10日
コリントの使徒への手紙(U)1章15〜22節
「主イエス・キリストにある“然り”」 平良修

 イエス・キリストは神の怒りの下にある私たちの為に、私たちの身代わりとして、十字架上で神の怒りの裁きを受け、その結果、私たちを無罪の者に変えて下さった方である。
 そのキリストによってすべての人は、神の裁きを受けるという“マイナス”を完全に消し去られ、神の子として生きる“プラス”に完璧に変えられた者である。
 この事実に関して、神には“イエス”であったり“ノー”であったりの不鮮明さは全く無い。すべての人には“イエス、然り、OK、合格“の証だけが打ち込まれ“私はお前を嫌う”“私はお前を憎む”“私はお前を捨てる”“あなたは生まれなかった方がよかった”と断罪されて当然の私たちが“私はあなたを喜ぶ”“私はあなたを誇りに思う”“私はあなたを愛し抜く”“私はあなたの存在を感謝する”と言ってくださっている。
 否定から肯定へ。私たちはこの不動の事実の上に立っている。自分の存在を肯定出来ないでいて、活力のある人生を生きられるはずがない。
 しかし、私たちには活力の源泉がある。それは主なる神が私たちを愛し、必要として創造してくださり、共におり、生かし、用いてくださっているというこの祝福の事実である。

 イスラエル預言者のイザヤは“自分は母の胎内にいるときから神に知られていた”と言い、エレミヤは“母の胎内に作られる前から神に知られていた”と告白し、伝道者パウロに至っては“天地創造の前から自分は神に選ばれていた”とまで確信的に告白している。私はこれらの告白はまさに私自身の告白であると断言できる。

 罪の故に私たちに「ノー」を突きつけておられた義なる神は、イエス・キリストによる罪の解決によって「イエス」と断定して下さっている。“神の然り”だけが私たちには現実なのである。

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